さみしさをぶつけ合うと、笑えてくるのだ。

後輩と
靖国神社に桜を見に行った。


彼女さんとの約束が駄目になったらしく
急遽借り出された
というわけだ。


その後輩とは数えてみると、
4年近い付き合いである。
彼は
大学に入学してはじめて会った時から
言うこと言うこと
「さみしいんすよ」が
文末につき、
それは今でも変わらず、
むしろネタ化してきていることを考えると
強かささえ感じてくる。


なんて書く自分も
東京に出てみると
結構さみしい人間である。


遊ぶ人の居ないさみしい休日がある。
部屋にこもって、
テレビドラマのDVDを借りてがっつり見てしまう。
お酒が弱いくせに、
ひとりで晩酌することが幸せだと言う。


夜、さみしい者同士で
自嘲気味に桜の下を
「さみしい」をネタに
卑屈になりながら歩いていると
なんとも笑えてきた。


さみしさをぶつけ合うと、笑えてくるのだ。


これは発見である。


つまりそれは、
さみしいを超えて
イタイ子らになった瞬間なのである。