振り回されんな。

詩人さんの家にお邪魔して
お花見をした。


隅田川のほとり
桜が並び、風が吹き、小雨が流れ、
壁には、誰が書いたか
落書きを見つけた。


「今日、僕は泣いた。
 明日は黙った」


悔しいな、
辛いな、
みじめだな、
いいなと思った。


寺山修司の「家出のすすめ」を

家出のすすめ (角川文庫)

家出のすすめ (角川文庫)

思い出す。


「最近の落書きは大変面白くない。
 読む者を意識した
 作為だけを感じる。
 

 受け取る者がどうとろうと、
 他者を意識せずに書く歓びだけに没頭できる、
 純粋に反文学的な記録こそが落書き」


みたいなことを書いていた。


詩も、落書きであるべきだ。


そもそも
「詩を書きたい」
という言い回しだっておかしいのだ。


言いたいことがあるから、
思うことがあるから、
伝えたいことがあるから、
やりたいことがあるから、


書くのであって、
それがないのに
「詩を書きたい」が先にくるのは
やっぱりおかしい。


正しくは
「詩で書きたい」
なはずなんだ。


言葉に憧れすぎて
言葉が道具であることを
忘れるきらいが人間にはある。


言葉に振り回されんな。


言葉に執着した生き方を、
考え直せよ。


でも、それでも
言葉が好きだって言うんなら
憧れから相思相愛になれるよう
がんばるしかないよな。


使い方間違いながら
辱しめられながら
泣かされながら。


愛してくれる保証の無い付き合いを
していくしかないよな。