はしご

詩の朗読会を二つ
はしごした。


「自分の気持ち」を見つけて、
「悲しい」なら「悲しい」と
「嫌だ」なら「嫌だ」と
ただそのまんまの言葉を
叫ぶのではなく
比喩にしたり
音を使ったり
突然別の国の話をしてみたり
語りかけてみたり
突き放してみたり


どうして人は
「表現する」ことをしたんだろうと
思った。


「悲しい」だけじゃ
足りないからだろうか。


真実に、
近づけよう、近づけようとした
結果なんだろうか。


他人を
楽しませようとしてるのだろうか。


ただ、
言葉の生み出す世界に
溺れることが
心地よいからだろうか。


今までのあたしは
「表現する」方法に関しては
どちらかというと無意識的で
なぜこういう言い回しが浮かんだんだろうとか
なぜこんな言葉がぽんと浮かんだんだろうとか
考えてこなかった。
(語感とか、全体の形とかは考えてたけど)


なんだか勝手に
でてくるもんな感じがしていて
ばーっと書き上げたら
後はそれを
意味を考えながら
整えていく作業だった。


むしろ
表現にいたるくらいの
強い「自分の気持ち」を見つける作業が
難しくて
「何を今、言いたいか」
が見つかれば
(自分の納得する)詩は出来上がっていたし
むしろ書きあがってみると
自分が何を言いたかったかが
分かったりする感じだった。 


今日
みんなの詩を聞いて
自分が書いてきた詩を
思い出してみると
「自分の気持ち」は発見できていたけれど
「表現」は
できていないと思った。


恥ずかしくて
自分の中で理由を付けて
発表しなかった。


「詩」ってなんだろうって思った。
「表現」ってなんだろうって思った。


「表現」として
人の中に
「詩」があり続けてる理由は
なんなんだろう。


「表現欲」って
なんなんだろう。