得する多重人格化

本好きの母がよく言う。


「最近の小説はどれも小さいのよ。
 昔みたいな、大きい話がないのよ」


ごもっともだと思う。


誰もが共通して持てるような
社会性、公共性は崩壊し
個々の物語へと細分化され、
更にネットやケータイの普及に煽られて
一人の人間まで細分化、多重化される時代である。


現代に、
大きい話などあるのだろうか。


ちくまプリマー新書
尾崎真理子氏の、
現代日本の小説」

現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)

現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)

を読む。


全編に渡って興味深かったが、
「物語を破綻させる多重人格化」に関して
強く興味をもった。


一人の人間としての内面告白文学は
近代の産物である。


舞城王太郎の「阿修羅ガール

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

にしても、
金原ひとみの「AMEBIC」
AMEBIC

AMEBIC

綿谷りさの「夢を与える」
夢を与える

夢を与える

にしても、


主人公たちは
一人で多数の物語を生きている。


生身の自分,
ネットの自分、
覚えの無い文章を書いている自分、
芸能界を生きるキャラクターとしての自分。


その狭間に違和を感じたり、
「芯」「支え」の喪失感に
苦しんだり、
欲したりする人間の姿が
描かれている。


けれど。


そうやって多重化した人格に
違和を覚えたり苦しんだりするばかりじゃ
ないと思ったりする。


そのシステムを難なく取り込んで
「これもあたしー、あれもあたしー」と、
上手に気楽に行き来を繰り返し、
気丈に得している若い人種も
多いような気がする。


いや、違うか。
狭間で苦しむ反面、
得する面も持ち合わせてはいないか、
ということか。


何か、
そういうあっけらかんとした
現代小説を読んでみたい気もする。


その壮絶なあっけらかんさに、
大きな違和や不安を
感じさせて欲しいと思う。


もしくは、
そういう現代病理を否定するような
どんでん返しのような小説が
読んでみたい。